昭和40年11月29日 朝の御理解



 「信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。」信心の道を迷わず失わず、末の末まで教え伝えよと、その信心の道をと仰る、その信心の道というのはどういうような事か。しかもそれを、末の末まで教え伝えよと仰る所に、信心の極りない奥の奥というものを感じます。又は、一生が修行中じゃと仰る、その事もその中から感じる事がでけます。道というのが、天地の親神様から教祖の神様へと、取次の道が開かれた。
 そしてそれを二代金光様、三代金光様そして現四代金光様と又は、私共の上に於いては例えていうなら小倉、福岡、久留米ここはそして三井教会から、久留米という様に一つの道をもって、私共信心というのが流れて来て居る。その道を、私共がお道とこういう訳です。お道の信心は、こういうのは、そういう事をいうのですけども、その事だけが道ではない。これは何処までも。
 私は2・3年前頂いた御教えの中に、「道という言葉に迷う事なかれ、道は教えを踏む他はなし」と頂いとります。教祖の神様が教えて下さったその教えというのは、踏んで行く以外にはないのだと。道というのはね、そうすれば天地の大道というのはそれなんだ、これが天地の親神様に近づいて行けれる道なのだ。信心とは。我心が神に向かうて行くのが信心というのじゃと仰る。
 信心とは、我心が神に向かうて進んで行くという事が道なのだ。そういう例えば極まりの無い限りの無い道をお互いが体得する。はぁもうそげな、そげん難しかなら私だんでけんと言わずにです、私共はその道を限りなく、言わば歩かして頂こう頂かして頂こうと、そこに限りないおかげというのが何処まで行って。これでよいという事はないのである。けども折角ならば道のない所を、踏み分け踏み分けして行くよりもです。
 道のある所をです、やはり辿らして頂いたら有難いのである。昨夜済んでから丁度五・六人で話し合ったこと、久富先生やら繁雄さん当りやら雨が降る雨具の用意してないのに雨があんまり降りますもんですから、雨が降りやむまでいろいろ信心の話さして頂いたんですけどもね、その中に私こういう様な話をしたんです。例えて、自分の家内であろうが主人であろうが、また親であろうが子であろうがです。
 果してもう家の、家内なら、家内の素晴らしさにもう尊敬して居ると、家の主人なら家の主人にもう何処の主人よりも立派であると尊敬が出来るだろうかと。これは親でもそうなんだ。もう家の母だけは家の父だけは、成程そげんあんた気に入らんごたるなら、他所のおっかしゃんとかゆりゃよかじゃんのちいうごたる訳にはいかん。何処にどういう素晴らしいお母さんがおろうが。
 おっかしゃんがおろうがですたい。パパとママの話から得たんですけれども、それをどんなに素晴らしいパパであろうがママであろうがです、いや他所のをですよ、そんならもし代えてやるち言うなら代えて貰う訳にはいかん。どんなに詰らん親でも、どんなに詰らん主人でも家内でも、どんなに屑の子である、どんなに親不孝な子であるでも他所の子と、そりけん取り替えたらよかろという訳にはいかんでしょうが。
 お道の信心はですね私が初心の方達に申します、初めて参って来る様々な願い事を持って来る人達に、私が一番初めに申します事はです、あぁた方がね親不孝しようという気持ちは一つもない。例えていうなら親と子として呼ばれる様に関係に於いてですたい、家の親にいっちょ心配かけちゃろち、言う者はおりゃせんけれども、心配かけておるのであり、親孝行がでけんのである。
 お道の信心はね、その親なら親に本当に子供としてです、例えそれがどういう親であってもです、その親に喜んで貰わにゃおられん、親孝行がしとうて堪らんという気持ちにならなければおかげは受けられんと。私は、私は道とはね、そこをひとつの焦点としてそうならせて頂く為の軌道というものをです、軌道にそこんとこを、もう家の親父はこうだけれども、家の親父に一生懸命喜んで貰わにゃおられんと云う。
 気持ちで努めさせて頂く所に道がでけるのです。そして例えば、足らん者同志の集まりでありながらも何とも言い知れん、言わば家庭に不和がなきが元なりと仰る様な穏やかな家庭生活がでけて来る。これは親と子だけではありません。兄弟でもそうですよ、夫婦でもそうです。又は自分の関わり合いに於いてです。言わば自分の関わり合のある所の商売人で言うならお客さん。
 言わば自分の隣近所と云った様な、関わり合のあるそこの上に於いてもです。もう隣の奴はものでも言おうごつなか、あげな奴には、もう一生あやつとはもの言わんという所にはです、もう既に道は切れておるです。関わり合が無いならいざ知らずですよ、隣近所隣という事の関わりが無いなら、他で例えば東京当りおらっしゃっても全然見も知らん、関わりが無いならいざ知らずだけれどもです。
 実を言うたら実をいうたらです、何処にもう誰であろうが関わり合が無いと云う事は絶対ないです。世界の隅々誰彼の上にでもこれは人だけではありません。もの事柄の上に於いても関わり合というのがあるです。関わり合に於いて天地というものはでけてるのですから、それを難しい言葉で言うと双方性原理という言葉になるのじゃないですかね。以前は相対性原理と言った様な、もうこれは世界の最高の学問だそうですね。
 又学説だそうです。そのそういうふうに、人間生きとし生ける物のもう生きとるもの、それはではなくても、けれども先ず人間関係なら、人間関係に於いても、何処の誰とでも実を云うたら関わり合があって、出来ておるんだという事。ましてや私共の親であり子であると言い、言われお父さんお母さんと、例えて云うならば夫婦の者がです、関わり合の上に於いてです。
 隣の〇〇さんと私の方の店に買物に来て下さった、そのお客さんとという関わり合の上に於いてです、その関わり合に於いてこれがスムーズにです、なるほど足りないものだらけである、もう家の主人はなかなか器量がよかばってん心が悪か、家の家内はお多福さんのごとしとる、ばってん心掛けはよかち、どちらか足りないのですよ。完璧というのはありゃせんのです。
 だから私の家内は、お多福さんのごたるとじゃけんで、俺は他所に女ごばつくるという所には、もう既に道が崩れて居る訳でしょうが。ですからそういう足りない者同志がです、足りない者同志が、如何にして和賀心というか、和の心というその心を家庭の上に社会の上に現して行くかという所に信心がある。ですから限りが無い、極まりが無いそういう関係でちょっと難しい事申しましたですね。
 ですからもう少し難しい事のついでに今申しましょう。昨日高芝さん所から、お母さんとそれから嫁御と嫁御のお母さんの三人でお参りがあった。夕方参ってバタバタしておる時に丁度参ってきた。福島さんが、あちらの御造営の方の現場の御用で丁度帰って来とりました。そこで火鉢を囲んでお茶でも頂ながら、福島さんが言われる。高芝さん、生きると生きて居ると生きるという事の関わり合の上に於て、高芝さん信心を進めて行きましょうやと言われる。
 片っぽお母さんが、ホウ何言いよんなはるか分からんもんじゃけん。はぁそうですたいそうですたいち、言いよんなさるとです。何の事か分かっとらんと思うです。ま、福島さんは分かっとられるかも知れん。もう私は最近親先生の御理解を頂きよってです、この事を最近は感じさせて頂く様になったと、今生命保険の外交なさっておられます。ですから特に生きる死ぬるの事は、特に感じなさるのかも知れません。
 けれどもね。生きるという事の上に於てですね、生きて居ると、自分が生きておるという事のです。例えて云うなら高芝さんがよく言われる、生かされて生きて居る、生かされて生きておるという事の関わり合い、そういう分かり易いものじゃない。それでも大体難しいでしょうが。けれども福島さんの言われるのはもっと難しいです。生きるという事の関わり合の上に於てです、お互い信心を進めていきましょうや。
 私は今この事ばかりを、ま明けても暮れてもこの事ばかりを思いよる。だから思いよる事だから、誰にでも捕まえてから、生きると云う事の関わり合の上にて、云うて話しておられる模様ですね。私も分からん(笑い)皆さんどうでしょうか。高芝さんがはぁそうですたいち、いうごたる風に合づち打ちよんなさるばってん、片っぽも分かっちょらんですか、違わんと思うです私は。
 けれども私今日の御理解を頂いて行きよったらです、ははぁこれはこう言うような事ではなかろうかと今思いよる。信心の道を末の末まで教え伝えて行くいう事。限りなく、信心の道というもの、生きておるという事、生きておると云う上にはです、食べもしなければならない。しもしなければならない。あらゆる言わば生きて行くと云う営みという事が、為されて行かなければならん。
 為にはです、もう絶対ここには一つの関係と云うものが、作って行かなければ生きて行かれんのですから。ある場合には魚との関わりに於て、魚を殺して行かなければいけないでしょうが。ある意味合に於いては野菜をです、野菜とても関わり合がでけて来る訳なんです。そこで私はまあ難しい事、只聞いて頂いた事の中から、皆さんが末の末までも教え伝えて行くという道はです。
 信心の道を迷わず失わずという事は、只天地の親神様から教祖の神様へ、そして歴代の金光様から、そして私共の手続き関係の、親教会のこういう道があるんだという事を分かっただけではです、それは道じゃない。そこに縛られる所に、只今申します様にです。道という言葉に迷う事なかれと仰る道は、教えを踏む他なしと。そこであらゆる御教えというものがです、その関わり合があるんです。
 けれども私が何というても、一番関わり合のあるというか、道をいよいよ道たらしめて行くと言う事のおかげを頂く為にはですね、矢張り教祖の神様の御教えの、これは私が私の独断上と云う様に、みんなが言われますね。難はみかげという事だと思うです。四神様はその事を難あって喜べとこう仰る。私はそこんところを、難即みかげとこう言うておるけれども、信心の道というものをです。
 私共がその辿ろうとしなかったら、矢張り難は難であります。難をみかげにして行く道という難をみかげにして行く道なんだ、金光様の御信心とは。困った事を有難い事にして行く道なのだ。そこで先ず私と例えば親、これが一番密接な関係にあるのです。親子の関係というのが家の親父が冷たい人間であろうが、家の母親がろくそな人間であろうがやっぱり親なのだ。
 でもう家の親父はどうした冷たい親父だろうか、家の母はどうしたろくそな女子じゃろうかと、それを言わば思い続けておっては、何時まで経っても親子の道というのは、神様が喜んで下さる様な道は生まれて来ない。その親にでも、その親にでも孝行しとうてたまらんという心。その親にでも喜んで貰わにゃおられんという心。是は子供としてのです。 そこからそういう例えばその心にです。
 はぁ私がこげん親孝行してたまらんという事になったら、親がこんなに喜ぶ、その喜びがこちらに返って来る。その喜びが親の例えば欠陥というものを覆うて行くのです。いわゆる補って行くのです。も。そこが見えなくなって来るのです。そこが関わり合と云うものを作って行くのだ。本当に私どんごたる親子は不幸だと。あげな子供を持って不幸せだと、あんな親を持ってから。
 自分は情けないと、言うておる間は道を求めておる者の姿ではないのである。そこに道を求めて行こう、親子の関わり合というのがあるのであるから、親子の関係というのがあるのであるから、その関係をいよいよ良いものとしての道を教祖の神様は教えておって下さるのですよ。これは親子だけではありませんよ。夫婦だけの事ではありませんよ。今申します様に、ありとあらゆると言いたいのですけども。
 先ず自分の関係のある直接のそれ、自分の隣の誰彼関係があるでしょうが、門内という隣組というもうあれとは一生でん、ものでん言わんと言う様な事ではもう、既に道を求めておる、信心をして居る者ではないという事。その人との中にどうかして良い道を分からして貰い、良い道を創る。こう軌道に乗せて行きたいという願いなんです。問題は、隣の誰彼とも何とか拝み合って行けれる道をです。
 どうかして拝み合うて行けれる道を軌道に乗せて行きたい。軌道に乗せようという所に信心がある。そこに極まりないものがある。この人とは軌道に乗ったけれども、この人又軌道に乗らんというのですから、矢張りこれは限りがないです。だからこげん限りがなかごたるなら、もう私だん例えば難しかと言うたんでは信心はおしまいなんです。一生と仰る一生が修行と、そこのそういう事を仰るでは無かろうかと私は思うですね。
 私共の身辺にですそういう様々な関わり合、私もよぅと分かりません私もそうですち、高芝さんじゃなかばってん福島さんに昨日言うてまあ話したんですから、福島さんの思うておられるのは他にはまあだ、高度な所かも分かりませんけれども、福島さんが最近感じておられると言うのはそう言う様な事ではなかろうか。生きて居るからにはです、生きて居る方にはもう言うなら一切を自分の為に犠牲にして行かなければ。
 生きて行かれない程の難しさというか、それがあるという事。だからその関わり合をですね、例えば魚がです、俺ば食べたけんで一生あん奴ば、打ち向こうてから魚から恨まれる様なこつがあっちゃならんという事なんです。そこに本当に人間を食物の為にはでけとらんですたいね。(笑い)魚の方が人間の命の為にで、人間がなら人食い人種ごつなってしまうから、そうじゃないですたい。
 反対です。魚がです、あれが俺ば食うたけんでもう死んでも忘れんち、腹ん中でも腹痛ども起こしたりですね。恨まるんなら大変でしょうが。そういうところを教祖はですよ、その関わり合に於いて、素晴らしい事を教えておられる。食物はみな人の生命の為に、天地の神がつくり与え給うものぞと。それは牛であろうが馬であろうがいいという事。人の生命の為、生命のために天地の神が、作り与え給うのであるからです。
 そこんところを生命の為に頂きますという所に、その牛が馬が生きる訳です。天地の親神様はそういう為に作っておられるのであるから、その言わば魚なら魚が生きる、本当にあなたに食べて貰うて有難いという事になるから、それを拝み合いの上に於いてですこの生命を頂く為に私共に食べられて仕舞う訳なんです。そしてあなたに食べられる事を本望で御座いますという事になって来るところに生命が生き続けるのですよ。ね、
 それがもう食べながら、そのあぁた魚が私共恨んだらどうするですか。ほうこの事だけは俺はもう死んだっちゃ忘れんと、言って食べられよる。(笑い)そういう事じゃないのです。あぁたに食べられる事が本望だ。親は子、子は親、親の為に犠牲になる。子供の為に犠牲になる。それを本望とする。それを喜びとする。そこに親子の関わり合と云うものが、何とも言えん拝み合の事になって来るのですよ。
 本当に私が足りんもんだから、あぁたにだけ大変な御苦労かけて済みませんと。もう本当に俺が足りんもんじゃから、お前に苦労かけて済まんなというところに、拝み合の関わり合が生まれて来るでしょう。そこに道が付いて来る。足らん者同志の中に、私は世の中に本当にそこんところが分からんから、親子の仲が悪かったり、夫婦の仲が悪かったり、近所隣との付き合いが評判があんまり良く無かったり。
 と言った様な事になるのじゃなかろうか。あげな信心のなかもんとは付合われんと言って、その軽う見る様な所にです、あの人は信心はしよっても隣近所の付合いもでけんごたる風で悪言われる。そうでしょうが。信心頂いとれば頂いとる程、そこんところの関わり合を関わり合として、私は拝み合うていけれる関係を作って行く事だと。もう此の事はお話をすれば限りが無いですね。
 只今の様に話して参りますとですから私が沢山の例えば御教えが、教祖の御教えというものがありますけれども、その中からひとつ難はみかげであると難はみかげぞと教祖は仰る。いや四神様は難あって喜べとさえ仰る。その難との関わり合に於てです、私は其処ん所を自分で行じさして頂いたんです。確かに様々な難儀があった。もう這も立ちもでけんごたる難儀な目にも合った。 
 血の涙の出る様な思いもして来た。馬鹿にされたという様な思いもさして頂いたんだけれども。私は馬鹿にさした人との関わり合に於てです、私が頂いて行く所に、言わば馬鹿と阿呆で道が開けて行きよる。今私が感じておる難儀です、その難儀というものとの関わり合の上に於てです、道を求めて行くのですよ。この難儀はどういう、信心をもってして行く事が、本当なのかと云う事を行じていくのですよ。
 お金が足りんのは、どう云う訳で自分がこのお金から虐められなければならんのかと、御飯を食べたいけれども食べられん。お金は沢山あるけれども、自分に食物を食べる事を許されない。どう云う訳に自分は食物を許されないのか、どうして子供から背かれるのか、どうして親からこんなに冷たく当たられるのか。とそこん所を道をもってです。成程お金に不自由する筈だ。
 お金に虐められる筈だと、いう所を追求してですたい、そこん所を追求して行く所を信心は教えるのですよ。その所の関係だからそれを、一つひとつ私が説くならもう限りがないです、このお話は。お金でも粗末に扱うところには、お金がなんの集まって来る筈がないじゃないですか。お金との関わり合がそれこそいらん物ごと、その手に何か嫌いなもの付いとるごとしてから、して行く者の上にお金が喜ぶ筈がないじゃない。
 お金が喜び合うていけれる筈がないじゃないですか。と、いう風にお話をして行けば限りがないでしょうが。ですからそういう関わり合を関わり合があるのだと分からして貰い、その関わり合いを、信心で如何に頂いて行く事が軌道、例えば対人間である場合は、その人の間に拝み合うて行けれる様な軌道に出る所迄、それを努力してという訳なんです。私はこの努力を惜しんだり。
 その努力をしようとしなかったらもう信心はないと思うですね。例えば御造営という事もそうです。様々な難儀な事困った事、言わば不都合な事もあるのですけれど、だから不都合な事をしたら、もう何時の昔井上組とはもうお前んごたるとこには頼まんぞと、いう事になっとったかも知れませんですね。お前のごたる強情な奴ならもうお前首にすると言うかも知れませんですね。
 けどもその関わり合の上に於てです、そこん所に私は道を求めて行く訳なんです。ですからこういう不始末な事であったこういう事であったけれども。それがこういう返っておかげになったという事になって来ておるですね。これは昨夜の御理解の中に頂いております様に、御造営の事に付いてもです最近私はここ二・三日それを実感さして貰うんですけども、この御造営という事が愈々軌道に乗るという感じが致します。
 ですから今迄は軌道に乗る為に、皆んなが精進努力しておったと謂う事になるのですね。軌道に乗ったからというて安心はでけません。脱線という事がありますからね。ですからそれが御造営成就という終着駅に着くまではです、軌道に乗ったらそういうおかげを頂いて行かねばなりません。そういう神様の働きを最近感じるです。今度の鉄骨の、言うなら不始末の問題なんか。
もうその最後的なものだと言った様な感じが致しますですね。いよいよ軌道に乗ることの為のです、その為に今日まあ緊急重大総代会議と云うのが、今日ある事になっとります。総代の方どうぞその積りで今晩ですから。いわゆる緊急重大ですからどうぞその積りで婦人部の総代さん方も全部です。だから杉さんあたりもどうぞ連絡お願い致します。そういう様な事がです。
 これは委員長の名に於てそれを大体昨日というておりましたけれども、もう何時も高山さんが見えんからという訳にはいかん。高山さんも来て貰わにゃいかんと云う事で、今日高山さんが見える事になっとるから、それを吏して今日の会議を申し込んでいきたいと、委員長が申しております。そういうひとつの関わり合というものがです、いよいよ生きて来る時が近づいておるという感じが致します。
 夕べ御祈念にかかる前に、久富さんが久富繁雄さんが見えられましてから、今朝方からお夢を頂きました。久富繁雄さんの坪とも分からない、妹さんが与田に嫁入っとられますが久富、吉田しげみと言われます。吉田しげみの坪とも分からん。どっちとも付かんけれどもその大きな坪がある。お百姓さんですから庭が、そこいっぱいの岩がある。私は今朝からその事を思ってもいなかったんですけれども。
 やっぱり私が繁雄さん方と、しげみさん方の坪じゃろかという感じなんです、そこに大きな岩がやっぱあるんです。その岩にですね。梯子をかけて登らんならんごとなっとるです。ところがこげん梯子までかけて、登らんならんごたるなら止めとこかち、言ともおりゃ登るともおるという御心眼頂いてから。今朝の御理解を実は頂いとるんですよ。それでその繁雄さんそのお夢を頂いてから思われる事。
 ははぁ是が椛目のいや合楽の今度石庭がでけるという話じゃが、是があのその石庭に使われるばいなあと思うた。お夢の中で思うた。思うたらですね、その岩が途端に足が出て手が出てですね、亀になってからゴソゴソ這出したと云う。私はそれを聞いて身がズーッと致しましたです。いわゆる大きな岩という事は大きな石という事でしょうが。大きな石という事は天地の心だと私は思うのですよ。
 天地が発動ましますんだと。今度いよいよ天地が動き出しなさるんだと、そういう気が致しました。それはだから教祖の神様と言うてもよいでしょう。又亀の事は私と仰るのですから、教祖の神様は、即そのまま大坪総一郎と言うてもよいでしょう。その心が動き出すと云う所だ。素晴らしいではないですか。吉田しげみというそれに吉田というのは良い田と書いてある。しげみというのは美しく繁と書いてある。
 久富というのは何時何時までも、いわゆる末の末まで久しく富栄えると云う、繁雄の繁は繁盛の繁が書いてある。そのどちらとも付かない坪という事は恐らく合楽のお庭であろうと私は思う。そういう例えば希望というかね、そういうものに満ち溢れた様な働きが今あらわれ様としておる。今迄お互いが様々な不都合な事やら困った事やら違う様な事があったのは、それは矢張り軌道に乗せる為の様々な事であったという事である。
 それに軌道に乗ろうとしておるね。ですから久富組じゃない井上組という事の上に於ての椛目との関わり合に於てです、そこに道を求めて行くという所に、私は御造営成就の鍵があると思うのですよ。そげな事言うとんならもう止めさせてしまえとか、向こうもいっちょ困らせようというのじゃなくて、どういう様な信心にならせて頂けばこれがスムーズなお繰合わせの。御神意のままにおかげを頂いていけるかと云う所に、私は焦点を置いてこの事も練っていかなければならないと、こう思うのです。
 どうぞそれはそういう大変な事、生きるという事の関わり合に於てと福島さんは言うておられる。私共はそこんところを私共の周辺一切のです、関わり合の上に於てです、それを放任せず、あれとは仲よういかんのだから、あげな奴ともの言わんでんいいけん一生、と言わずにですそこにその人との上に、如何に関わり合を求めてです。その関わり合の中にスムーズな和をもって結ばれて行く事をする、所に一生でけなくてもです、そこにこう精進して行く所に信心があるのです。
 そこに道が付いて来る訳なんです。その道を私は信心の道だと私は思うのです。そういう道を体得しとかにゃいかん。そしてそれを子供に孫に伝えて行かなければならん。為に私共の周囲の、どれだけあるやら分からん様々な関わり合をです一切を信心で所謂例えば難をみかげにして行くと云う、いや難は成程難即おかげだなあと分からせて頂く所までです、それを関わり合というものを、生かしていかなければならんと思いますですね。
   どうぞ。